壬申の乱 – 今日の語呂合わせ俳句年表

672年、壬申の乱(じんしんのらん)が起こる。天智天皇の弟(大海人皇子)が子(大友皇子)を破る。

【暗記用俳句】 ♪自信持て ひるむな突っ(672)込め 皇子たち

壬申の乱とは?

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日に起こった古代日本最大の内乱(ないらん)。

天智天皇の息子である大友皇子(おおとものみこ、のちの弘文天皇)と、同じく天智天皇の実弟である大海人皇子(おおあまのおうじ、のちの天武天皇)が、天皇の座をめぐり、兵を挙(あ)げて争った。

その結果、大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝利。
日本では例の少ない内乱であった。

大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝利したのは、先制攻撃(せんせいこうげき)を仕掛けたのが最大の理由といわれる。

大海人皇子(おおあまのおうじ)は、壬申の乱の後、奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位し、天武天皇(てんむてんのう)となった。

なお、「壬申の乱」の名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)当たることによる。

大海人皇子の勝因は?

壬申の乱で、大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝ったのは、以下の要因(よういん)があった。

1.天智天皇(てんじてんのう)時代の白村江(はくすきのえ)の敗戦(はいせん)や、防人配置(さきもりはいち)などの国防強化策(こくぼうきょうかさく)に不満が出ており、特に、東国出身者が中心の防人(さきもり)は負担が大きかったため、その反動で大海人皇子(おおあまのおうじ)側に兵が集まった。

2.当時、天皇は母親が皇族(こうぞく)か豪族(かぞく)出身の皇子が継いでいたため、大友皇子(おうとものおうじ)は天皇になれるほど血統(けっこう)が高くなかった。大海皇子(おおあまのおうじ)の母は皇族(こうぞく)出身、大友皇子の母は采女(女官)だった。

3.天智天皇(てんじてんのう)を補佐(ほさ)していた大海人皇子(おおあまのおうじ)は、天皇になるための能力、経験を周囲に認められていた。

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